日本人の性質と世界標準

◆日本人の性質と世界標準

評論家のケント・ギルバート氏の日本人に対する指摘を読み、私自身考えてみたことを記してみたいと思います。

🔴ケント・ギルバート氏の指摘

 日本人は凶悪犯にまで「潔さ」や「正直さ」を要求する傾向があるが、ナイーブすぎないか。凶悪犯も最後は必ず改心するという「性善説」が前提だからだろうか。

国の指導者が、国益のために平気で嘘をつくことも、世界の常識である。例えば、北朝鮮の歴代指導者は、国際社会に何度も嘘をついてきた。「核兵器保有こそ、北朝鮮の国益だ」と考えているのだから当然だ。何度もだまされる方が悪い。

ケント・ギルバート氏の「ニッポンの新常識」より

論考自体は、色々な示唆を含み、氏の真意がどこにあるか、は多少読みづらい部分もあるので、あくまでこの論考を読んで私が感じたこと、を書きます。

この論考の中で氏は、日本人は、基本的に性善説の持ち主であり、悪人にも情けをかける(私の表現)文化や、他人のためにつく嘘を善と捉える傾向がある、と指摘し「それは世界の標準の考え方ではない」とも語られています。

氏の指摘されている内容は2つに集約されます。

①.悪人はいくらでも嘘をつくものであり、一片たりとも信じてはならない、という考え方が世界標準である
②.他人のためについた嘘であろうとなかろうと、嘘は嘘であり、また嘘をつく権利は一定の範囲で認められる、という考え方が世界標準である

①については氏は金正恩を引き合いに出して説明されており、理解しやすいのですが、②は少しわかりづらくなっています。

この指摘でのポイントは、日本人の中には、嘘が一定量認められるという世界標準を認識していない人が多いのではないか、ということではないかと思います。

この論考の中ではありませんが、別の論考ー「トランプ氏の安倍首相への発言は「暴言」か「冗談」か… 国民は情報の真偽を見抜く力が必要 」ーの中で、氏はトランプ大統領に言及し、トランプ氏が発するジョークの言葉尻を捉えて反応する日本のマスコミを批判しており、このこととも関連していることだと私は思います。

ジョークを嘘と捉えるか、という議論はあるでしょうが、突っ込みどころが一片もないこと=本当のこと、として捉えるなら、一片でも突っ込む箇所があればそれは嘘になります。ですからジョークも一種の嘘と考えられるでしょう。
そしてこの論考の中で、「国民はメディアリテラシーを磨いて、情報の真偽や発信者の意図を見抜く必要がある。その能力がなければ民主主義国家の「主権者」として責任を果たせない」と言及しています。
つまり、(ジョークも含め)一定の嘘は一国の指導者であっても認められる、ということが現在の民主主義国家の世界標準であり、それが許容範囲か否かを判断するのが国民の義務である、と言っているのです。

まずこの指摘にに対して私は全面的に同意します。それは嘘を一定量認めることが正しいと思うかどうか、ということではなく、嘘を一定量認めることが、民主主義国家の世界標準である、という認識において同意し、また、日本人にその認識が欠ける傾向がある、ということを認める、という意味です。

🔴欧米人の特性について

日本人がこうした性格を持つに至った「原因」については私は少し違った見解を持っています。私はこの原因となる日本人の性質とは、「自と他を分ける感覚に乏しい」ということであると思っています。

しかし、これを説明するより、現在の民主主義の元を作った欧米諸国が、嘘を一定量認めること、を権利として認めるようになった理由を説明する方がわかりやすいでしょう。

United States of America の、Unite(結合する)という言葉の中にアメリカ人は特段の思いを込めています。その反対語が「分断」です。アメリカにおける分断と言えば一つしかありません。「南北戦争」です。アメリカ人同士が2つに分かれ、お互いを殺しあう、純然たる内戦であり、これがアメリカ人にとっては最悪の記憶なのです。
こうしたことを2度と起こすまい、と思っているから「分断」という言葉がアメリカ人にとって重要なのです。そしてその反省として、主義主張が違う集団があっても、それが最悪の事態を引き起こさないようにするために、一定の嘘をつく権利をお互いに認めたのです。

ヨーロッパも同じです。ヨーロッパにおいては、アメリカよりも更に事態は深刻です。陸続きであるが故に、領土は常に変動し、主義主張の戦いで殺し合いを始めれば、いつまでも終わりはありません。こうしたことから、同様に一定の嘘をつく権利をお互いに認めました。

この「一定の」という部分はグレーです。そこはあえて踏み込みません。一般的には「人格攻撃」というのはアウト、というような考え方はあります。人格判断は医師の診断書などがない限り、客観的なお墨付きはありませんから、基本主観です。つまり嘘か本当か、を判断する材料がないので、一種のルール違反となります。
しかしアメリカにおいては、それすらも第三者の判断に任せる、というような考え方もあり、だからこそトランプ氏が非公式にツイッターで発する人格攻撃も、メディアリテラシーの中で判断されるのです。

以上のような経緯があって欧米諸国には、特に集団の議論をする際に、表現の自由の範囲内で嘘を認める、という土壌が生まれ、これがまさに欧米型民主主義の根本を為しているのです。

🔴日本人の特性について

翻って日本はどうでしょうか?

日本にはそうした内戦の経験はありません。明治維新はそうしたことが起こる可能性のある事件であったことは事実ですが、結果的に明治政府(幕府方にも功労者はいるが)は大変うまくやったので、そうした事態とはなりませんでした。
勿論明治政府だけが原因ではなく、所謂万世一系という2600年以上続く皇統の歴史があってこそ、とも言えるかもしれません。
戦国時代はどうなのか、と思われるかもしれませんが、戦国時代は単なる領土争いであって、イデオロギーの戦いでも宗教的対立でもありません。一向宗の一揆や天草の乱などはあっても、日本全体を巻き込んだものはありません。

こうした経験と、島国である、という特性から、我々日本人は欧米程の切実さを持って相手を許容しなければならない理由は生まれませんでした。
これは日本が極めて恵まれた国であった、ということを意味しています。私が以前書いた「朝鮮について思うこと」の中で言及した、朝鮮の歴史的不幸とはまさに真逆です。歴史的幸運なのです。

しかし弊害はあるのです。「日本人は一つ」という無意識な価値観があるために、相手に対して「自分として」あるべき姿を要求します。そしてそこに一切の嘘を認めません。日本人はどうしてもどちらに正義があるか、ということを求めがちですが、当然お互いが自分を正義だと思っているために、相手に自分の正義を教えたところで認めるわけがありません。

議論は決別しますが、「一定の嘘」の領域がないために、最終的には常に感情論となり、感情論が感情論を生んで非常にとっちらかった状態となります。

先日、作家の百田尚樹氏のツイートに対して「保守気取りの論客」と揶揄する返信がありました。百田氏のツイートは別に保守を代表するような意見では全くなかったのですが、そこにあえて保守という言葉を持ち出したり、更には気取り、という意味不明な修飾をつけているわけです。
これも一種の嘘であり、ツイッター上では当然認められる表現ではあるでしょう。
しかし、この例も日本人がいかに議論というものに慣れていないかを示しています。またこうした意見に対して、保守かそうでないか、はたまた善か悪か、の対立構造に簡単にしてしまうことも、私たちは気を付けなければいけません。

いずれにしてもケント・ギルバート氏の言うところの「メディアリテラシーを磨く」という言葉に集約されているように思います。私たちは恵まれた国であったからこそ、見えてないものがあり、世界の多くは恵まれていなかった、ということを認識しなければならないのです。