亡父の思い出

「山河燃ゆ」

今から34年前のこと。
NHKの大河ドラマで「山河燃ゆ」というドラマがあった。
原作は山崎豊子の「二つの祖国」である。ハワイに移住した日本人たちの、先の大戦前後の人生と苦悩を描いた作品だった。主人公の天羽賢治は、アメリカ人として、アメリカの為に働き、戦後極東裁判の通訳をする、という設定だった。

私の父は昭和3年の生まれで、終戦時の年齢は17歳。所謂昭和一桁、と言われた世代である。政治思想的には正統な保守であり、私は親から偏向的な教育を受けたことは一度もなかった。テレビはNHKしか見ない、と言っていた。家の人間が民放を見ていると、よくぶつぶつと文句を言い、うるさかったという記憶がある。

そんな父でも、当時NHKはまだまとも、と考えていたようで、特に日曜日の8時から放映している大河ドラマは欠かさず見ていた。

しかしこの「山河燃ゆ」については違った。
ドラマの作りとして、東京裁判のくだりに、ある程度時間を割かれており、東京裁判がいかに一方的に進められたか、ということを主人公の苦悩とともに描いていた、と思う。
東京裁判については、当時の私は殆ど知らないことばかりだったので、自分にとっては勉強になるドラマだったのだが、あるとき一緒に見ていた父が、

「何をばかげたことを言っているんだろうね」

と言ったのである。

明らかに父はいらついていた。
たしかドラマを最後まで見ることなく、茶の間を出ていってしまったように記憶している。
私はその父のいらつきの原因が、何故なのか、ということが長いことわからなかった。
しかし今はわかる。
とはいえ、既に父はこの世にいないので、確かめることはできないけれど。

屈辱の時代を生きたひとたち

「われ、環境を支配せん」

父が終戦後、学友と再会したときに言った言葉だと、父が亡くなったときにその方が教えてくれた。17歳の言葉とは思えないが、素直にすごいと思う。
父にとって、戦争で負けた、ということは屈辱的なことであったのだ。環境に支配されるのではなく、自らが環境を支配する、そういう人生を自分は歩む、という決意の言葉だったのかもしれない。

東京裁判は、敗戦の屈辱の象徴のようなものであったのだと思う。「戦争に負けるとは、こういうことなのだ」ということを思い知らされるものであったのだろう。

父及びその世代の人にとって、東京裁判がでっちあげの裁判であり、戦勝国による敗戦国への一方的で理不尽なセレモニーであることは「あたりまえ」のことだったのだ。
しかしそれを理不尽だと抗議する権利も力も日本は持っていなかった。砂を噛む思いで、その屈辱を黙って受け入れるしかなかったのである。

そういう中で、死に物狂いで努力をし、もう一度日本を復活させようと多くの日本人が頑張った。この結果、日本は奇跡的な復興を遂げたのである。

屈辱の経験をバネにすることで、日本の戦後復興は進んだと言っても過言ではないだろう。

しかし戦後40年経って、東京裁判を蒸し返すドラマを見たときに、おそらく父はそんな「あたりまえ」のことも、わからくなってしまったのか、と感じたに違いない。またそれを蒸し返す意味も理解できないと思っただろう。

壊され荒らされた花壇を、一生懸命修復し、ようやく色とりどりの花がきれいに咲き乱れるようになったときに、もう一度引っこ抜いてどこが壊されていたのか調べる、というような感じだろうか。

繰り返すが、父はもうこの世にはおらず、確かめることはできない。しかし今私は、そのときの父のいらだちを、わがことのように感じることができるようになった、と思う。

今の時代、過去の情報は、驚くほど詳しく、かつ簡単に調べることができるようになり、ネット上では、右左問わず、こうした情報をもとに、様々な人が意見を述べている。
しかし私は、かつてこうした情報を自分が知っていたとしても、父のいらだちをリアルタイムで理解手出来たとはどうしても思えない。

30年以上の年月を経て、当時の父の年齢に近づいたからこそ、わかるのだ。